会報30号(リラのいえ開設15周年記念号)に「スタッフインタビュー:施設長退任とリラのいえのこれから」を掲載いたしました。リラのいえの運営体制変更にあたり、その経緯や活動への思いについて報告しています。
そのインタビューの全文をお届けします。その1は「リラのいえ前施設長 佐伯トシコ編」。その2「スマイルオブキッズ事務局長 谷畑育子編」も併せてご覧ください。
山崎彩さん(フリーアナウンサー)
―生年月日と出身地を教えてください。
1943年11月22日。出身は岩手県の一ノ関です。
―いい夫婦の日なんですね。趣味は何ですか?
トイレ行くのも我慢して編み物したりします。自分の手のサイズに合わせたアクリルたわしとか。独身時代から手芸は大好きで、刺繍や洋服も作ります。ほとんど何でも作れます。また食材の残り物でお料理することも好きです。高校時代に洋裁・和裁・お料理は1級を取得しました。
―多趣味ですね。
趣味と生活が一緒なので。本も読みたいし、ダンスや卓球で身体を動かしたりしたいです。
―リラのいえはどのようにスタートしたのでしょうか。
1999年1月、自宅を建て替える機会があり2階をファミリーハウスとして提供を始めたのがきっかけです。
―なぜご自宅を提供しようと思ったのでしょうか。
元々はこども医療センターで事務職として勤めており、遠方からご家族が治療に来られるのを知っていました。私の自宅からなら徒歩で通えて交通費もかからないし、何かサポートができたらいいなと思って、自分でできることを必要な時までやろうと始めたんです。提供して数年ほど経過した時に、施設の必要性に声があがりはじめ、病院とスマイルオブキッズと一緒になって募金活動して2008年にリラのいえを開設しました。
―佐伯さんご自身はどのような活動をしているんですか。
利用申し込みからお部屋のアレンジ、入室・退室前後の個室の整理・整頓・消耗品の点検、共有部分のチェック、新ボランティアの実習やスタッフの声にも耳を傾け、また、利用者さんからのお声がけにも家族のような想いで対応しています。
私は聞き役ですが、時には利用者のお母さんたちから聞いたことを話すことも。「こんな方もいたわよ」、「術後で3日4日はちょっと熱あるみたいよ」とか。すると「あの時の佐伯さんの言葉でほっとしました。」みたいな感じでね。お医者さんのような専門職じゃないですけど、お母さん方はそのほうが話しやすいと言う事もあると思います。
―利用者の方々とお話をしていて感じることはありますか。
長いことやっていると、その家族がちょっと見えてきますね。玄関に来ただけでも、どういう環境におられるか。子どもさんを見ても分かりますし。初めての方は特に、本当に玄関で固まっていらっしゃるけれど、「どうして神奈川を選んだの?」と聞くと、もうバーっと話してくれたりします。
―蓋をしてきた人たちの蓋を開けるのが佐伯さんなんですね。
本当にちょっとだけだと思いますよ。やっぱり蓋を開けて言葉にする場所ってなかなかないんです。「病院でこんなこと言ったら」みたいな遠慮もあるようですが、「そんな重要なことはちゃんと看護師さんに言わなきゃ駄目よ」とか、私はそういうことも言っちゃいます。本当に些細なことでも、お母さんにとってはそれがネックで悩みの種だったりして。生まれたときからの病気なのか、突然の病気なのかでも、お母さんの気持ちが全然違いますからね。
―長年携わっている佐伯さんだからこそお伝え出来ることがあるんですね。
利用者であるお母さんたちに二十数年も育てていただき、鍛えていただいたと思うんです。やっぱりかける言葉やメッセージが違ってくるというか、もちろん感情を壊さないように心がけていますけど。
「佐伯さんのあの時の言葉にはすごく救われた」と言われるとね、「なんて言ったっけ?普段かけている言葉なんだけど」みたいなね。やっぱり病院と違うところが、お母さんたちはちょっとほっとするんでしょうね。
―何気ない一言でも、その方にとっては大切な一言になるんでしょうね。
そうね、言葉、メッセージね。そんな長い言葉じゃなくてもね。
今の自分があるのは、本当に能力とか才能じゃなく、「そういう環境に置かせていただいた。そのレールに乗せていただいて今がある」と思っているので、これからも大事にしていかなきゃいけないなと思っています。
いろんなお話の中から私が言葉を伝えると、「本当にそうなんですよ」と、どんどん話が深くなってきて。「そういう方が前にいたわよ」というと、その方を紹介して欲しいと言われることも。
―お繋げする役割でもあるんですね。精神的に支えてもいらしゃる。
繋げることは時にはあります。
精神的なことまではいかないですけど、「あ、このことだったんだ。これがお母さんの悩みだったんだな、お話できて良かったなぁ」と。
―接する上で大切にしていることはどんなことですか。
こちらからの返事ですね。人によるけれど。同じ内容を言っても重たく解釈する人もいらっしゃるので、言ってから3日間ぐらい悩む事もありますね。でも、その人がどれだけ気持ちをプラスに感じたか。その感じ方は、顔色や何かで察するしかないなと思うんです。
―できるだけ、その気持ちがプラスの方向に働くようにお声がけをしてらっしゃるんですね。
そうです。ここで気持ちが落ち込むようなこと言っちゃったら本当に大変ですし、言葉に出したことは取り消せないし、それは大事にしたいと思っているんですけれど、相手の心境によったら、なかなか難しいですよね。
―これまでを振り返って、印象に残っていることは何でしょうか。
皆さん、それぞれ記憶にあります。
日本でまだ10人しかいないという難病のお子さんが社会人になりお仕事しているとか。
20歳まで生きられない難病のお子さんの場合は、ご家族は今回はどんな思いで来ているんだろうか、元気になって帰ってもらいたいなと思いますね。
血液のがんは割合助かる率が高いので、再発して地元の病院では「もうできません」と言われても、神奈川へ来て元気になったお子さん達はとても多い。そういう点ではね、「ここがあって良かった」、「滞在施設があったから、神奈川にしました」と言われると、「あぁ、活動していて良かったな」と思います。
また夜にね、泣いて抱きついてくるお母さんもいます。それを通りがかった他のお母さんも心配して、「私もそうだったのよー」と話しかけてくださったりします。そんな時期はやっぱりあって、日にちが経ってもなかなか回復しないと、お母さんもどこにもしがみつけない。泣ける場所を提供できるというのは一番大事だと思っています。家でも病院でも泣けないけどここでなら泣けるっていうのは、お母さんも一歩前進できた証拠だと思うんです。
泣いた翌日「昨日はありがとう」と言われちゃって。泣ける環境をスタッフが作っていると思うんです。
―これまでの長い年月をかけて作り上げてきたものだと思うので、やろうと思ってすぐにできるものではないなと感じます。
これまでたくさんの方々と関わってきて何か思うことはありますか。
患者さん自身では障害を変えられなくても、医学の進歩によって、大人になった子ども達が社会に出られるような世の中になってほしいですね。病気にもよりますが、こども病院を卒業する年齢になると、おとなの病院へ移行することで家族がすごく悩んでいるんですよね。
―どんなことで悩んでいるのでしょうか。
例えば先天性の病気があり、心臓とか形成外科など、一箇所の病院で治療が済んでいたのに、大人になると何か所もの病院を探し選ばなければいけない。大人の病院では、先生方も診る自信がないということがあるらしいんですね。こども病院にそういう成人を診る科もでき始めています。
―支えてくださっている支援者の方にはどのような思いをお持ちですか。
本当に大勢の方に長年に渡り支援を頂き、どのような想いで支援してくださっているのだろうと日々思っています。お礼状には少しでも現場が見えるような手書きのメッセージを添えています。本当にね、一人一人にお会いしたいくらい。
利用料金も1,500円を1,000円にするのはすごく大きなことですよ。値下げができたのはやっぱりご支援の皆さんのおかげなんですよ。
―佐伯さんがご自宅を提供するという思いから始まった循環の輪ですね。
これも皆様からのお力添えです。病院からの声かけで協働できたのが始まりですが、病院の知名度・信頼度によって県内外から訪れるご家族にお手伝いができる事は私達にとっても大きなやりがいです。私自身もこの年齢まで皆様とご一緒でき、素晴らしい人生を送れた事は、ご家族・ご支援の皆様そして現場のスタッフのお蔭です。感謝しきれません。
―佐伯さんはどんな方ですか。
谷畑:私はもともと患者家族なんでが、当時ここにきてお話できていたら、どんなにか良かっただろうなって思える人なんですよ。人の気持ちを汲んで、欲しい言葉をくださる。それが才能ですよね。そういう人への寄り添い方もすごいと思うし、リラのいえを応援してくださる方々を引き付ける力も。
私、ファンドレイジングの勉強をして、准認定ファンドレーザーの資格を取ったんですけど。ファンドレイジングって寄付集めだけじゃなくて、仲間を巻き込む意味合いもあって、その勉強をするにつれ、「あ、佐伯さんは本当に天性のファンドレーザーだな」と思います。
―求心力のある方ということですね。
谷畑:そうです。そこが基盤になっているなと。近い人への接し方もそうだし、ちょっと離れたところからも応援を集められる。利用者さんにとっても、支援者さんにとっても魅力的な方だろうなと思います。