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【医療者の声】人生の最後に「無念である」と思える道を歩むこと

子どもの病気に関わる医療者の皆様の声をお届けします。今回ご寄稿いただいたのは、神奈川県立こども医療センター看護師の岡部卓也さん。大学時代にリラのいえでボランティア体験をされ、現在も様々なご協力をいただいています。お子さんはもちろんドクターからの信頼も厚い岡部さんに、医療者としてのお気持ちや信念などを教えていただきました。

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「リラのいえ」出会いのきっかけ

 ある年の夏、当時大学3年生 (23歳)の時でした。 かながわ県民サポートセンターの募集要項に、小児患者家族滞在施設「リラのいえ」での活動が紹介されていました。当時担当して頂いた、サポートセンターの角田さん、リラのいえは佐伯さん、上原さんでした。
 看護学生の3年生は、病院実習が多くなる学年ですが、夏季休業は約2か月程ありますので、アルバイトをしたりサークルで遠方へ出かけたりと充実した日々を過ごしておりました。そこに何か+αで人と共に生きる上で知っていなければならないと、視野を広げた際に「リラのいえ」に出会うことができました。 

「共感」するところ 、 「愛する子ども達のために」

私自身は、幼少期に入院した経験(熱か何かで短期間入院したようですが、ほとんど記憶にありません)、大学生の頃にバイクの交通事故で1泊2日入院した経験があります。事故で頭部を打ったということもあり、経過観察として1泊のみ入院しました。また、親族が何度も医療機関にお世話になることが多く、お見舞いに足を運んだ経験は多数あります。今思うと、色々な病院を見学できて、色々な医療従事者に会う良い機会だったかもしれません。

 幼少期の頃に入院した際は、恐らく(想像ですが)両親は相当心配をしていたのだと思います。原因がわからず、子を病院に置いて入院させることは、親には想像を絶するほどの不安を抱えていたのだろうと、今、臨床の現場で働き始めて感じています。
 親が子に表現する「愛し方」はそれぞれだと思いますが、私も、私の親も、またその親も、それぞれ愛されながら生きていたのだと思います。世の中には、その愛情の表現方法を間違えて、暴力等の所謂虐待といわれるケースに発展してしまうこともあるようです。

 先に述べたように、親族は病気や事故等でよく県内の医療機関にお世話になりました。父もまたその一人で、当時私が19歳の頃に、悪性リンパ腫で闘病をしていました。父はエンジニアとして働き、その背中を見て育った私もエンジニアを目指している19歳の時です。
 その父は、腫瘍が脊髄を圧迫されていたようで、下半身はほぼ動かすことができない状態でした。抗がん剤治療等を経ておりましたが、期待した治療効果を得ることができず、再度治療に耐える体力の回復を待つため後方病院へ転院後、永眠しました。
 後程、母から聞いた話では、自宅へ一時帰宅をしたときのことです。父がいつも座っているリビングのソファまで、玄関から床を這っていったそうです。私も含めてきょうだいは3人いますので、声をかければ手伝うこともできましたが、恐らく床を這う姿を子に見せたくなかったのでしょうか。
 それもまた、父の威厳を保つためでもあり、母も黙っていたことは、子に対する愛だったのでしょうか。 

 私がバイクで交通事故にあった際も、父から譲り受けたバイクとヘルメットを使用していました。恐らく、大事に至らないように、父からの愛情があったのだと思います。 
 子は、親に育てられ、親は子の成長を喜びます。時には、誰かの援助が必要な時があります。家族は違えども、愛情の方法は違えども、愛することの連鎖をリラのいえに感じます。 
 
 父の影響を受けて、エンジニアを目指していましたが、進路を大きく変更して今の世界で働くこととなりました。一時の感情の揺らぎなのだからと、母には大反対をされました。おそらく、命と向き合う医療の世界は甘いものではなく、現実を直視できていない私への教育 だったのかもしれません。私はこの世界を選択したことを後悔せず、むしろ私に与えられた使命だと思いながら誇りを持って働いています。その方向転換がなければ、リラのいえにも出会うことはなかったかもしれないと思うと、(後に述べますが)この世界を選んだことは最善の方法であったのでしょう。 

病気や障害のある子どもに関わり続ける医療者としての気持ちや信念

 医療は、死屍累々の上に成り立っています。これまで、多くの方々の生命が、多くの方々の生命を支えています。また、この先も変わらず。 
 できることならば、この世界から病気や障がいのない社会が実現できたほうがよいのかもしれません。ですが、自然界の中で生かされている私たちの現実は、なかなかそのようにはならないようです。この世に生を受けた時点で、最期へのカウントダウンが始まっています。全ては運命に導かれているのか、未来は決まっていて変えることができないのか、私にはわかりません。ただ、何か決断をする時は、未来の私が失敗をしないようにもう一度チャ ンスをくれている(SFのような話になりますが、タイムマシーンができている世界が未来にはある)と思って、今、選んだことは最善の方法であると信じています。 
 
 働き始めて5年が経過する中で、数多くの子どもたちと出会ってきました。皆が、個性を持っており、同じ疾患であっても同じ人ではない。また、同じ病気であってもその個性は様々です。薬が得意な子がいれば、苦手な子もいます。完治する子もいれば、完治しない子もいます。元気よく病棟を飛び出して退院する子もいれば、皆に囲まれながら無言で帰宅する子もいます。 
 人間のあるべき姿の教科書はありませんし、普通(平均的な姿、模範的な姿)はあっても正解はありません。でも、人はなぜか正しい答えを導きたくなり、正解は何かを探す旅に出 ます。私自身も、何が正解なのか自問自答することがありますが、失敗しないようにもう一 度選択するチャンスが来たと思えば、そこまで悩む必要はありません。 
 人との出会いから「生き方」を学ぶことはあります。私も、入院している子どもたちから 教わることがあれば、逆に人生の先輩として子どもたちへ教えることもあります。 
 以前、「将来、おかべさんのような看護師になりたい」と語ってくれた子がいました。残念ながら、その夢は叶わずに幼くして天国へ旅立ちました。その子は、入職したばかりの頃に担当をしており、症状が芳しくないため再入院していました。私の何が、その子をその気にさせたのか、定かではありませんでした。ただ、私との出会いがその子の生き方に影響を与えたのは間違いありませんし、とても嬉しくもあり、また看護師として精進せねばと気が引き締まりました。私も、父の最期を担当していた男性看護師に憧れてこの世界を目指し、今に至ります。私もその男性看護師から生き方を学んだのかもしれません。 
 最近、別の子にも「将来看護師になって、一緒に働くから待っててね」と言われました。 ぜひ、一緒に働くことができる日が来ることを楽しみにしています。 
 
 私が思うことは、人生の最後に「無念」である、と思える道を歩むことです。この「無念」とは、この世に残す念は、何もない様であると、以前お坊さんに教わりました。やや仏教的な考えかもしれませんが、各々人生の時間には長短があります。ただ、その長さに関わらず、人がこの世を去るときは、皆は無念であるということです。生涯を短く終えたとしてもその人にとっては人生を全うしているのです。 
 病気や障がいを持っていたとしても、限られた人生を歩む中で、どのような生き様を形成するのかは、周りの人間、最も近い家族の愛情に依存します。私には、病気を治す力は持っていません。ただ、その時にその子と共に生きることはできます。また、生き様を教え合うこともできます。 
 何を望むのか、それは「今までの日常」がその子とその家族が希望することでしょうか。 日常とかけ離れた入院生活は、非日常です。ただ、あるご家族からは、入院生活が長くなる と、「ここは第二の我が家ですよ」と聞きました。善悪ではなく、我が家と思えるほど日常に近づいたと思うと、私たちは家族になったのかもしれないと感じました。家族のように愛 情を注ぐ看護師が、ここにはいるのかもしれません。 

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